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本の匂いが好きだ。
柔らかな紙に染み込んだインクの香り、それを綴った人の想い、
本造りに携わった人々の願い───そんなものが色んな形になって、
ぎゅっと一冊の本に凝縮されている。
本を読んでいる間、ぼくは旅人になり、時には詩人になり、
そして情熱的な恋をする主人公にだってなれる。
素敵な一冊に出逢えた時は、まるで恋をした時のように胸がドキドキときめいて、
とっても幸せな気持ちになるんだ。
そして、ぼくが本を一番好きな理由。
それは、此処にある全ての本たちが、
ぼくの知らない沢山の時間を、ネズミと共に過ごしてきたということ。
今ぼくが手にしている一冊をネズミも読んでいた。
きっとあの白く綺麗な指先で一ページ一ページをめくり、
澄んだ瞳でこの一文字一文字を真剣に読みふけっていたのだろう。
そう考えると、自分も同じ環境でこうして同じ本が読めることを、すごく嬉しく感じる。
その反面、いつも彼に大事に扱われ、見つめられていたであろうこの本たちが
少し恨めしかったりするのは、心の狭いぼくのワガママなのだろうか──。
その日も、ネズミの帰りは遅かった。
ここ最近、仕事が忙しいらしく、
彼が帰ってくるのは決まって日付けが変わるほんの少し前だった。
毎日の日課のように紫苑はイヌカシのホテルへ犬を洗いに出かけ、
仕事が終わるとイヌカシとほんの少しだけ雑談をして、
簡単な買い物を済ませてから家へと帰ってくる。
そしてネズミのために夕食を準備してから、彼が帰って来るまでの間、
こうやって書庫に入り込んでは本を読み耽っている事が多くなった。
「あ〜ぁ、最近はネズミも忙しいんだな。つまんないの……」
無意識にそんな台詞を口にする。
すると本棚の向こう側からふいに待ち望んでいた声が聞こえてきた。
「ふぅん……そんなに俺にかまって欲しかったのか?」
「えっ? あ、ネズミ、帰って来てたんだ! ね、スープあるよ? 直ぐ暖めるね?」
「いや、その前に……」
突然ネズミの顔が至近距離まで近付くと、
あっという間にチュッと唇をかすめるようなキスが落とされる。
「あ……、え、えぇっと……」
最近のネズミは、やたらとこういうスキンシップを紫苑に仕掛けてくる。
まだそれに慣れない紫苑は、その度に挙動不審になっては、
顔を真っ赤にしてうろたえてしまうのだが。
「最近は、ここが紫苑の定位置になりつつあるな。
もうほとんど読んだんじゃないか?」
「え? ん、まぁ……かなり読んだ事は読んだけど、
まだまだ読んでないものの方が多いかなぁ?」
ネズミのほうはといえば、全くもって動じる様子も何も無く、
顔色一つ変えずに淡々としている。
そのお陰で紫苑もすぐにいつもの調子に戻って普通の会話が展開される。
「そういえば、最近面白い童話の本を見つけたんだよ?
童話なんて子供が読むもんだって思ってたんだけど、
これが意外と奥深いというか……、結構考えさせられることが多いんだよね」
「あぁ、もしかしたら、グリム童話か?」
「そう! あれって、意外と内容が残酷っていうか、
子供には読ませられないような、怖い表現とかも多いよね?」
「まぁ、子供よりもお子ちゃまな精神年齢のヤツには、特にそう感じるかもな?」
「う……それって、もしかしなくてもぼくの事、バカにしてる?」
「お前がそう思うってことは、もしかして自分をお子ちゃまだって認めてるってことか?」
「う、うぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜っ!」
自分が年齢よりも思え方が幼い……というより、
世間知らずな事は認める。
だが、日々が微温湯(ぬるまゆ)の中に居たようなNo.6の生活から、
一変して西ブロックの現実に放り込まれた自分に、
この世の残酷さを全て受け入れろというのも酷というものだ。
そんな風に思って、紫苑は思わず唇を噛み締める。
「それより、腹減った」
「あ、うん。すぐスープを温めるよ」
「あぁ、頼む」
そう言ってすぐにシャワー室に向かうネズミを視界の端に留めながら、
紫苑はスープを温め、既に硬くなったパンにナイフを入れた。
(それにしても、最近のネズミ……少し、疲れてる?)
スープをゆっくりとかき混ぜながら、紫苑はそんなことを考えた。
夜、一緒のベッドで眠りにつき、
ふと気付くと自分はいつも彼に抱きしめられている。
朝方、彼にどうしてそんなことをするのかと何気なく聞いたら、
「お前は抱き枕みたいなもんだ」と軽く答えられた。
抱いてた方が暖かいし、なんとなく落ち着く……
そんな台詞を恥かし気もなく口にされると、
変に意識している自分がバカらしく思えて、
それ以上は突っ込んで聞かないようにしていたのだが。
今朝方、ここ最近のスキンシップの多さについて言及したら、
「お前には癒し効果か何かがあるのかな?」と、逆に首を傾げられてしまった。
とにかく、ネズミは紫苑に触れると落ち着くらしい。疲れて帰って来ても、
紫苑の顔を見たり触れたりすると、疲れてザラついた心が癒されるのだという。
(ま、ぼくに触れることで、ネズミの疲れが少しでも癒されるなら、
それに越した事はないんだけどね……。
でも、このままじゃ、正直ぼくの心臓の方がもたないや……)
そんなことを心の中で呟きながら頬を朱に染める。
気付くとネズミがシャワーを浴び終えて、
タオルで髪を乾かしながら紫苑のすぐ傍までやって来る。
「おっ、美味そうだな。最近、お前の作るスープの塩加減が上手くなったからかな?
帰ってこれを口にできるのが楽しみなんだ」
「うわ、ホントにっ? お世辞でもそう言ってもらえると嬉しいなぁ〜」
紫苑がやんわりと微笑むと、目の前でネズミがその顔を見つめて瞠目している。
「ん? どうかした?」
スープを皿に取り分けながら紫苑が聞くと、
ネズミは慌てたようにゴシゴシと髪をタオルで拭き出し、
その表情を見えなくする。
「……なんでもねぇ……」
「そう? なら良いけど……?」
(……ったく、コイツの笑顔は犯罪に近いな……)
そんな風にネズミが赤くなった顔をタオルで隠して毒づいている事など、
完全天然主義の紫苑が気付くわけもない。
互いに互いを意識しながらも、こうして何食わぬ顔で共同生活を送っている二人が、
やがてとんでもない事件に巻き込まれる羽目になるなど、この時はだまだ誰も知る由もなかった。
「あ、そういえば今日、ネズミが出てくる話を読んだんだ」
「は? 俺……?」
「あはは……じゃなくて、本当の鼠(ねずみ)が出てくる話だよ。
まぁ、ぼくとしてはネズミ(キミ)が出てきてくれる話のほうが読んでみたいけど……」
「は、んなモン、ある訳ねぇだろ」
「あははは……まだわかんないよ? これから先、
キミが主人公の物語とか、あ、もしかしたらぼくたち二人の物語とかも、
ひょっとしたら誰かが書いてくれるかもしれないし……」
「ったく、お前は夢見る国のお姫様だな?」
「ん、じゃあ、キミは王子さまってわけだ?」
「……はぁ?」
あっという間に夕食を平らげたネズミが、
ソファーの上にごろりと横になると、
紫苑が待ってましたと言わんばかりに話しかける。
こうして他愛ない話をするのが、紫苑の……いや、二人の、一番の楽しみでもある。
「ほら、さっき話したグリム童話ってあったでしょ?
あの話を書いた兄弟が参加して書いた民話っていうの?
それに鼠が出てくる話があったんだ。ハーメルンの笛吹き男っていう話だよ?」
するとネズミは徐に立ち上がり、
紫苑に向かって業務用の綺麗な笑みを一つ零し、華麗に会釈する。
「その昔、遠い、遠い東の街……ハーメルンという場所に、
『鼠捕り』を名乗る、色とりどりの布で作った奇妙な衣装をまとった一人の男がやって参りました。
その街の人々は、この秋収穫したばかりの大事な穀物をたくさんのネズミに食い荒らされ、
たいそう困り果てておりました。そこでその街の地主と住民たちは、
莫大な報酬と引き換えに、ネズミたちの駆除をその男に持ち掛けたのです。
───すると男はおもむろに笛を取り、
何とも魅力的な笛の音でネズミの群れを惹き寄せヴェーザー川へとおびき寄せては、
ネズミを残さず川へと飛び込ませ、あっという間に溺死させてしまいました……」
惚れ惚れするような口調でネズミが物語をかたり始める。
紫苑は思わず彼の後ろに、広くて眩しい大舞台が広がっているような錯覚に陥ってしまう。
するとネズミはそれを良しとしたのか、
自慢げな笑みをひとつ浮かべながら、話の続きをし出した。
「しかし……ネズミ退治が成功したにもかかわらず、
ハーメルンの地主と住民は彼との約束を破り、
笛吹き男への報酬を出し渋ったばかりか、
ついには男を無理やり街から追い出してしまったのです!
笛吹き男はハーメルンの街を去り、
しばらくは街にはネズミの居ない平穏な日々が訪れました……。
───しかし、怒った笛吹き男は、ある日再びハーメルンの街へと舞い戻って来たのです。
折りしもその日は教会で大事なミサがある日……。
大人たちが教会にいる間に、笛吹き男は再びあの魅惑の笛の音を吹き鳴らし、
その音に誘われたハーメルンの子供達を、なんと街から連れ去ってしまった……。
おぉ……なんと恐ろしいっ!」
あまりの迫力に放心状態で見入る紫苑を、
ネズミはさも愉快そうに見下ろす。そして、
すっと一歩前にその脚を踏み出すと、
眼下で見上げる紫苑の額にちゅっと小気味いい音を立ててキスをした。
「……うわっ!」
驚いて現実世界に意識を戻した紫苑に、ネズミは尚もこう続ける。
「街からは、百三十人の少年少女が笛吹き男の後に続いて姿を消した。
子供たちは洞窟の中に誘い入れられ、そして、洞窟は内側から封印されて、
笛吹き男も洞窟に入った。子供達は二度と戻って来なかったそうだ。
物語の異説によっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた二人の子供、
あるいは盲目と聾唖の二人の子供だけが残されたと伝えられている……。だったかな?」
「……すごい……」
「この話は実話を民話にしたってことらしいが、その実話が何だったかっていうのには、
かなり色んな学説があってな? 一説では宗教戦争に参加するために
少年少女が騎士団を結成して出兵し、そのまま帰ってこなかったっていうのを民話にしたとか、
東ドイツに移民した貧しい民族について書かれた話だっていうのもある。
あるいは、子供たちは病気か何かの自然的要因により死亡してて、
笛吹き男は死神の象徴じゃないか……とかいうのもあるな。
それに信憑性は低いが、精神異常の小児性愛者が、
子供たちを攫って無残なことを繰り返したっていうある事件をモデルにしてるんじゃねぇか……?
っていうのもあるぜ?」
「えっ?」
途端に紫苑の顔色が変わる。
それを見て、ネズミが何かを思い出したように、『しまった』と小さく心の中で舌打ちをした。
「それって……ホント?」
神妙な面持ちの紫苑を前にして、それみたことかとネズミは小さな溜息を零す。
そしてあからさまに紫苑を抱きしめると、安心しろと言わんばかりに背中をぽんぽんと叩く。
「だ・か・らっ…! 信憑性は低いって前置きしたろ? 心配すんな……」
「う、……うん……」
No.6から追われる形でこの西ブロックへとやって来た紫苑は、
そのギャップにまだ心がきっと追い着いていない。
その証拠に残酷な場面に出くわしたり、話を聞いたりすると、
突然我が身をかえりみない行動に出たり、急に泣き出したりするのだ。
いくら命の危険性があったとはいえ、
温室育ちの彼をこうして現実世界に連れ出したのは紛れも無く自分だ……
そうネズミにも自覚はあった。
だから尚更、紫苑がその真っ白く無垢な部分を黒く染めていくことに抵抗があったし、
本当は現実を受け入れなければこの世界では生きていけないということを知ってほしい反面、
そうなって欲しくないと思う矛盾した願いを抱く自分がそこには居た。
世の中の悲惨さや無残さを聞くたびに、紫苑が心を痛みで乱すことは百も承知していたはずなのに、
ネズミはついつい、いつもこうして地雷を踏んでしまう。
そんな自分を歯がゆく思いながら、ネズミは紫苑の体をぎゅっと力強く抱きしめた。
「わるい……少し図に乗って喋り過ぎた。今日は、もう寝るか?」
「………………」
「……紫苑?」
ネズミに抱きしめられ、何も言わない紫苑を不思議に思って覗き込むと、
そこには想像に反して、頬を桃色に染めながら何かを悟ったような紫苑の顔があった。
「……本当だ」
「ん……なにがだ?」
「ネズミに触れてるとすごく安心するし……こうやって抱きしめられると、
すごくドキドキする。前に読んだ恋愛小説にこういう描写があったんだけど……これって、
ぼくがネズミを好きってことで良いんだよね? それも……すごく好きってことで……」
「……なっ!」
紫苑の台詞に愕然としたネズミが、がっくりと項垂れる。
紫苑のことは天然だ天然だと思っていたが、
ここまで来るとさすがにただの天然というだけでは済まされない気がする。
ネズミの中で、何かのスイッチが、ほんの僅かに入った音がした。
「おまえ、それを俺に聞くのか……?」
「……え?」
気付くと、ネズミの悩ましげなため息が首筋を転がり落ちていく。
「……いいだろう。じゃあ、これから俺がする事にも文句はなしだぞ?」
少しだけ冷えた鼻先で、コショコショと耳朶を擽られる。
そして紫苑の香を堪能したであろうネズミに、小声でこう囁かれた。
「お前は、見た目も性格も砂糖みたいに甘いけど……汗の匂いすら甘いって……知ってたか?
まぁ、この匂いすら全部俺は好きなんだけどな?」
「……っ?」
ぞくりとしたものが絶えず背中を駆け上がってくるのに耐えながら、
紫苑は小さく息をついた。
すでに寝る体勢で着替えたためやや露わになった鎖骨付近に、
ネズミが躊躇いもなく鼻先を寄せてくる。
スンと息を吸いながら、首筋付近にいくつものキスを落とされた。
「どうだ? これでもまだ安心するか? それとも……少しはドキドキするか?」
揶揄するように囁かれて、カーッと首筋までを赤くしながら、
ほんの数ミリだけ横に首を振ってその言葉を否定する。それを確認するが早く、
顎のラインを取られて。
「んん、ンっ……」
あっという間に唇を塞がれていた。
いままでほんの少し触れるようなキスは幾度と無くされてきたが、
今回のようなキスは初めてだった。これまでのそれが子供騙しにしか思えないほどの、
深く求められるキスに意識を翻弄される。飲み込みきれなかった唾液が唇の端から零れるのを、
ネズミがさりげなく指先で拭う。
合間にその指先をも舐めながら、口内全てをくまなく味わわれる。
その色っぽくも艶かしい姿と口内に繰り広げられる刺激とで、
今自分の身に何が起こっているのかすら良く判らないほど、頭の中が甘く痺れた。
(あ…っ、何これ……?)
下腹部の奥のほうに、急に火が灯ったような感覚があった。
じわじわと燃え広がったそれが、やがてポンっとちいさく爆ぜる。
それに触発されたように、立て続けに小さな爆発が体のあちこちで巻き起こった。
「……っ、ぁ……へんっ」
「なにが……ヘンなんだ?」
返事を返す間もなく、甘く深いキスが再び繰り返される。
身じろいでも外れない唇と、未知の感覚とで、紫苑の頭の中はにわかにパニックを起こしていた。
得体の知れない何かが今にも爆発しそうで、その戦慄がざわざわと背筋を撫でていく。
「……やぁ……っ、」
未知の感覚に飲み込まれて慌ててそう呟くと、すっかりと息の上がった紫苑の唇から、
ネズミは名残惜しそうに唇を離す。
「とりあえずは……ごちそうさま、かな? 本当はもっとお前を味わいたい気分だけど、
これ以上したらお前がより一層パニックを起こしそうだからな?
今日のところはこれで我慢しといてやるよ?」
「……っ…はぁ……」
肩で息を繰り返しながら、未だ何が起こったのかを理解できずに居ると、
再びネズミに抱きしめられて耳元でこう囁かれる。
「俺にこんなことをされてもイヤだって思わないなら、
それは、お前が俺を好きだってことだろうよ。
それも友情とか、家族とか、そんな甘っちょろい感情じゃない。
もっと別の意味で好きだってことだと思うがな?
もし、その答えが本当に知りたいって思うなら、
そん時はこれ以上のことをして教えてやるよ……」
(これ……以上のこと?)
麻痺した頭で漫然とネズミの言葉を繰り返すと、再びぎゅっと力強く抱きしめられる。
(あ……このカンジ……すごく好きだ……)
洗いざらしの髪から放たれるネズミの香りが、紫苑の鼻腔を優しくくすぐる。
途端に安心したのか、紫苑を急速に眠気が襲った。
「うん……ネズミ……大好きだよ……他の誰よりも、大好き」
「……え?」
驚いたネズミの腕の中で、呑気な紫苑が微かな寝息を立てはじめる。
「……ったく、紫苑には敵わねぇな……」
そう優しく微笑みながら、ネズミは腕の中の天然王子を優しく抱きかかえながら、
自分もそっと心地よい眠りに就くのだった。
《あとがき》
このあと、紫苑くんが連続少年誘拐事件に巻き込まれてしまいます;;;
はてさて……。
ネズミはどうやって紫苑を助け出すのでしょうっ!!!
ドッキドキハラハラ&甘々の展開となりますw
続きは是非本で読んでくださいませ!(o≧∀≦)ノ
冬コミでお待ちしておりますね〜〜〜ヽ(*'0'*)ツ
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